スタッフ紹介

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院長写真

院長 水口洋一

 

名前みなくち よういち
出身地大阪府吹田市
趣味・嗜好米野菜つくり・料理
好きなスポーツサッカー
よく聞く音楽

ブロンディーのアルバムはすべて持っています

音痴と言われ中学・高校の合唱祭で一度も歌わせてもらえませんでした

好きな食べ物妻の料理・チョコレート・フィナンシェ
好きな動物犬・猫(現在ねこ2匹)
はまっていること佃煮つくり
休日の過ごし方

薪割り、草刈り

田舎暮らしは大変です

目標

世の為・人の為に俺はなる

プロフィール

大阪千里山生まれ、父が関西大学職員であったことで大学の施設内で7歳まで過ごしました。特に休日は人が居ないため勝手に校舎の屋上に上ったり、下に潜ったり好きなように遊び場にしていました。父がサッカーを教えてやると言って大きなグラウンドでボールを蹴った途端、悲鳴を上げてうずくまり「地球を蹴ったー」と痛がっていたのを覚えています。後に親指の爪が真っ黒になっていました。甲子園出場の関係だと思いますが高校生時分の巨人・原監督と津末選手がそのグラウンドでキャッチボールをしているのを見ました。70年安保の学生運動にも参加しました。覚えていませんがプラカードを持って先頭を歩いていたらしいです。父は反対に大学校舎の入り口にバリケードを作っていたそうです。小学2年から高校卒業までは兵庫県川西市で過ごしました。

中学校に入ると僕にとって激動の時代が始まりました。1年次に担任として恩師に出会いました。山元慶子先生です(同窓会においても連絡先が分からず困っています。どなたかご存じの方がおられましたら教えてください。)。山元先生によって僕の目が初めて開きました。部活動においても小学生から初めていたサッカーで僕一人だけ1年生からレギュラーになりました。3年次は生徒会長になりました。ただ、1年生の3学期に腎臓病を発症し以後まる3年間体育すら禁止になりました。せっかく芽が出だしたサッカーですが諦めざるを得ませんでした。泣きました。身体を動かすことが出来ないので仕方なく活躍できる場として生徒会を選びました。そして卒業を前にして事件が起きます。他校との揉め事です。僕の仲良しグループはそれ以降不良の道を歩み始めます。僕は参加しませんでした。そして高校3年間は口をつぐむ事にました。目立つ事は何もしないと決めました。じっと耐えていましたがついに精神がやられ鬱になりました。

不眠です。明け方にやっと眠れます。そして睡眠中に胃痙攣が起こります。激痛です。突然、腹部に痛みを感じて目を覚まします。周りを見渡します。誰かに殴られたと思ったからです。1時間後に同じ痛みが起こります。そして次は30分後、その次は15分、そして最後は間隔なく続きます。やがて収まりやっと眠りに就きます。受験を迎えても教科書を1ページ読むのに何時間もかかります。たった一行が進みません。読めはするのですが脳が納得しません。右脳と左脳が繋がりません。何度も同じ一行を読み返す作業が続きます。心身の疲労は語り尽くせません。

若さでしょうか。高校3年時に運動が解禁され体育や部活動を始めると身体の状況は改善してきました。でも精神・脳の働きはなかなか回復しません。20歳過ぎまでかかりました。それでも30代前半に突然、あれ?と思う瞬間がありました。いま鬱が抜けた!と感じました。この頃にはさすがに何不自由なく過ごしていたつもりですが、何か不調が残っていたのです。15歳からとして約15年かかったことになります。

鬱の方のお気持ちはよく分かるつもりです。

高校入学当初、担任の先生から進路希望を尋ねられ大阪外大と答えました。このとき先生は笑わずに頑張れば行けるだろうと言ってくれました。結局、志望校には全く届きませんでしたが、その時、先生が笑わなかったことが今でも自慢です。ちなみに隣にいた友達は関学と答えて先生に笑われていました。結果、彼は関学に行きました。そして僕はどんどんと道を外れていきました。なんとか大学を出て東京の水産会社に就職しましが一年足らずで退職しました。

就職中の一年足らずの間に鍼灸の師匠に出会うことが出来て僕は救われました。

当初、師匠が博学過ぎて同じ道を歩むことが想像できませんでした。師匠の施術は気功と整体が中心で鍼灸は補助的でした。診断が独特過ぎてついて行けなかったのです。そこで私は東洋医学を勉強することにしました。行岡鍼灸学校に入学し、学内の授業のみならず学外の勉強会にも通いました。最初は中医学、次は経絡治療です。今でも東洋医学の発想・哲学が人生の支えです。整体も学びました。協会に入り専門的に研鑽しました。

そして現在、気功治療に至っております。

気功をメインにして整体と鍼灸を補助的に行います。具体的な内容は違えど師匠のやり方と同じになってしまいました。

30年越しの治療活動を通してほぼ究極と言える施術に至っていると自負しております。

ちなみに妻とは鍼灸学校で同級生として知り合いました。